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法然上人の歩まれた道④

「師が授けた名前」

 勢至丸が十三歳で修行の地として登った比叡山は、伝教大師最澄が仏教の道場を開く以前から山岳信仰の霊山として仰がれていました。そこにある天台宗総本山延暦寺は、三塔(東塔・西塔・横川)とその細分である十六谷を広大な寺域としています。東塔にある根本中堂が総本堂に当たり、伝教大師作と伝えられる薬師如来を本尊とし、堂内には創建以来、絶えることのない不滅の灯明が輝いています。法然上人(浄土宗)、親鸞聖人(浄土真宗)、一遍上人(時宗)、栄西禅師(臨済宗)、道元禅師(曹洞宗)、日蓮聖人(日蓮宗)と言った鎌倉仏教の祖師がたは、いずれもここで修行されたのです。

 勢至丸の比叡山での最初の師は、西塔北谷の源光でした。叔父の観覚が源光に宛てた送り状には、その器量を智慧の文殊ボサツに重ねて、「進上、大聖文殊像一躯」と書かれていたとのことです。源光は勢至丸の卓越した器量に感嘆し、仏教を本格的に学ぶ第二の師として、学匠として知られた東塔西谷の皇円阿闍梨を紹介します。阿闍梨(アーチャールヤ)とは、教師という意味です。十五歳になった勢至丸はそこで剃髪し、大乗のボサツとなる戒を授かり、深遠な天台仏教の習得に打ち込むのです。そのゆかりの地にはのちに法然堂が建てられ、「法然上人得度御𦾔跡」という碑が立っています(東塔東谷)。

 得度とは出家して僧となることを表す言葉です。皇円は仏教を中心とした編年体の歴史書『扶桑略記』を著したことで知られています。その永承七年(一〇五二)の事項には、「今年の始め末法に入る」という記述があります。仏教の時代認識では、教え・行・行の成果の三つがそろっている時代を正法、行の成果が見られなくなった時代を像法、教えのみが残っている時代を末法と言います。特に浄土教はこの末法という時代と、その時世に生きる人々の機根(仏法を受けとめる能力)をふまえた教えを説くのです。

 皇円もまた上人の才覚に感嘆し、天台宗の棟梁となる道をすすめます。しかし仏教の学問的習得によって立身出世するより、父の遺言でもある、苦悩を越えた安らかな境地を求める上人は、十八歳の時、第三の師となる西塔北谷にある黒谷の叡空上人の門下となるのです。黒谷は隠遁の修行僧、つまり聖たちが集まる別所といわれる静寂な地でした。その名を大黒天の出現の地という伝承に由来する黒谷は、比叡山五別所(東塔東谷神蔵寺・西塔黒谷青龍寺・横川兜率谷霊山院・横川飯室谷安楽律院・横川飯室谷帝釈寺)の一つで、谷は深く流れは清く道は細く、跡を暗ますのにふさわしい所と言われ、今もそのような趣を留めています。

 大乗ボサツの戒に精通した叡空は、この若き求道者から仏法を求める真摯な志を聞き、「少年にして、はやく出離の心をおこせり。まことに、これ法然道理のひじりなりと随喜して、法然房と号し、実名は源光の上の字と、叡空の下の字をとりて、源空とぞつけられける」と伝えられています。つまり師は、若くして早くも自然な道筋(法然道理)であるかのように、苦しみ多き世界を厭い、安らぎの世界を願う聖の出現を喜び、平生は法然房という名で呼び、実名は比叡山での最初の師である源光と、自らの叡空から一字ずつを取って源空と名づけたというのです。

 房とは僧が居住する小室のことですが、後にはそこに住まう僧その人の別名として、また尊称として使われるようになります。従って浄土宗では、房号で宗祖を呼んでいるわけです。このような命名のいわれと共に、法然上人の教えには、誰でも、いつでも、どこでも取り組める仏教を伝えるために、人が仏の子として生まれ育つ自然な道筋に思いをめぐらす心配りがあるのです。

知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英

剃髪する勢至丸(『法然上人行状絵図』巻三)

第5回「眠りを忘れて求めた道」