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法然上人の歩まれた道⑤

「眠りを忘れて求めた道」

 この世に生まれた者が、四苦八苦の波にほんろうされ、苦しみ悩みの海に流され続ける暮らしを、仏教では生死と呼んでいます。お経では、身と心から成る人を、苦海を渡る舟(身)と、その舟を操る主(心)に譬えています。

 苦海と大海には、果てしない(無辺)・底なく深い(甚深)・渡り難い(難度)・汲み尽くし難い(不可飲)・大いなる宝が秘められている(大宝所依)という五つの類似点があると言われます。前の四つは苦海を渡る難しさを表していますが、この上ない宝が秘められているという最後の一つは、安らぎの岸へ渡る船のような宝があることを暗示しています。

 法然上人は籠られた黒谷の別所で、「報恩蔵をひらきて出離生死の為、衆生済度の為に、一切経をひらき見給うこと五遍なり」と伝えられています。報恩蔵とはあらゆる仏典(一切経)を収めた経蔵のことです。比叡山焼き討ちの後、江戸時代に再建された黒谷青龍寺の境内には、今も報恩蔵という名のお堂があります。上人は報恩蔵にある膨大な仏典を何度もひもとき、ご自身が、そしてすべての人々が生死の苦海を乗り越えることのできる教えを、眠りを忘れて探し求められたのです。

 なぜなら、自・他が共に手を取り合い苦海を乗り越えることが、大いなる慈悲に根ざす仏教が大事にするものだからです。仏教を開かれた釈尊は、煩悩に縛られている人々を、苦しみの絆から解放しようと、長い間、慈悲に縛られていた。それゆえ釈尊の慈悲は、ご自身には無慈悲であったと讃えられています。法然上人もまた、釈尊が歩まれたそのような道をたどられていたのです。

 ところでタテ糸を意味する「経」という字は、中国では詩経や書経のように、専門的な教えをまとめた書物を表しますが、「経」の原語であるスートラ(修多羅)と言う梵語も、やはり糸を意味します。玄奘三蔵が翻訳した仏典には、釈尊の教えの集成がなぜ糸を意味するスートラという語で表されるのかについて、それは教えの糸で人々の命を貫き、正しき道に導き入れるからである、と説明されています。

 では法然上人が報恩蔵に探し求めた安らぎの境地に至る道は、どのようなものだったのでしょうか。それは、

①欲望の暴流を静める戒めを守る戒学
②それによって心を安定させ真理を瞑想する定学
③それを深めて智慧の眼を開く慧学

という伝統的な戒・定・慧を実践する道ではなかったのです。なぜなら、それらはすぐれた資質の人には可能であっても、多くの人には行い難い道であったからです。

 その当時の法然上人の苦悩は、二祖聖光上人によって次のように伝えられています。

「悲しきかな、悲しきかな、いかがせん、いかがせん。ここに予がごとき者は、すでに戒定慧三学の器にあらず。この三学の外に我が心に相応する法門ありや、わが身に堪えたる修行やあると、万の智者に求め、もろもろの学者に訪いしに、教える人もなく、示す倫もなし」

 つまり戒・定・慧の三学の実践が容易ならざるものであることを、身を以って実感した上人は、三学の実践に堪えられない者でも安穏の境地に至れる道を、悲痛な思いで探し求め、各宗の高僧を尋ね歩かれたのです。けれども、教えてくれる人には出会えなかったのです。

 法然上人はそれでもなお、「歎き歎き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教に向かい」、求道の歩みを止めることはなかったのです。両親との別れという悲しみで始まった法然上人の求道は、またも大きな悲しみと歎きの壁に行き当たったのです。

知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英

黒谷で師の叡空と対面する若き法然上人(『法然上人行状絵図』巻三)

第6回「釈尊のもとに集う人びと」