トピックスTopics

法然上人の歩まれた道⑥

「釈尊のもとに集う人びと」

 後白河法皇の『梁塵秘抄』は、平安時代末に流行していた歌謡(今様)を集めたもので、仏教色が濃く浸透しています。例えば、「極楽浄土は一所、つとめなければ程遠し、我らが心の愚かにて、近きを遠しと思ふなり」とか、「阿弥陀仏と申さぬ人は淵の石 劫は経れども浮かぶ世ぞなき」のような歌もあり、当時の浄土教信仰をうかがうことができます。

 その後白河法皇に仕えていた平康頼は、平家討伐の陰謀に連座し、俊寛らとともに鬼界ヶ島に流罪になりますが、恩赦で帰洛し、知恩院の南にある双林寺に籠居します。法然上人と同時代の、すぐ近くに居た人なのです。『新古今和歌集』の代表的歌人の西行が双林寺に草庵を結び、西行を慕う和歌四天王の一人で、浄土宗七祖聖冏上人が歌を学んだという頓阿も双林寺に居たことから、境内には西行、頓阿、康頼の三人が並んだ石塔があります。

 『平家物語』には、康頼が双林寺で『宝物集』という仏教説話集を書いたとあります。『宝物集』は嵯峨の釈迦堂が舞台となり、まことの宝とは何かをめぐって話が展開します。

 ちょっと内容を紹介しますと、

 姿を隠す隠れ蓑が宝だという人には、それは盗みの行為を助長することになるから宝ではないと退けます。打ち出の小づちが宝だという人には、それを奪おうとする人が出てきて、争いの原因となるから宝ではないと退けます。玉石が宝だという人には、原石を磨く技術がなければ宝にはならないとして退けます。子どもが宝だという人には、親子であるからこそ激しく憎しみ合うこともあるとして退けます。命が宝だという人には、露のようにはかないものは宝ではないと退けます。

 そして、苦しみ悩みのない安らかな暮らしに導く仏法こそがまことの宝なのだ・・・

ということを、仏典や漢籍や説話や和歌を縦横無尽に引用して物語るのです。法然上人の語録には『宝物集』と同文のものが幾つか見られます。ちなみに、大本山清浄華院の名づけ親である室町時代の向阿證賢上人は、和文による念仏教化の古典『西要鈔』を、釈迦堂に集う男女の信徒と老僧との対話という形で書いておられます。

 十八歳で黒谷の叡空上人の門下となった法然上人は、二十四歳の時、師の許しを得て静寂な山を下り、人々の信仰を集める釈迦堂に、求法の道が開けることを一心に願って、七日間参籠されます。清凉寺(釈迦堂)は東大寺の高僧、奝然の発願が元になり建立された名刹です。奝然は宋に渡り、文殊ボサツの霊場である五台山を巡礼し、宋の太宗から賜った刊行されたばかりの経典と、栴檀の釈迦如来像を持ち帰ります。その像内には宋の尼僧がたが作られた絹製の五臓六腑が納められています。奝然の母は法然上人の母と同じく秦氏の人と伝えられています。

 奝然は渡宋の前に、無事に帰れなかった場合のことを思い、母の為の法要(逆修)を営みます。その時の願文は、詩友であり、『往生要集』の著者源信と共に念仏結社(二十五三昧会)を起こした慶滋保胤によって書かれています。そこには渡宋を許してくれた母を、

「わが母はこれ人間(じんかん)の母にあらず。これ仏縁あるの母なり・・我の仏道を勧め給う者は我の慈母なるなり」

と書かれています。法然上人がこの願文を読んでおられたとしたら、さまざまな思いを重ねられたに違いありません。

 後に法然上人は主著『選択集』の中で、仏像の前に立つ時の心得として、そのお像が様々な素材で作られたものであったとしても、「尊容を想うこと、まさに真仏を見るがごとくすべし」という仏典の文を引用しておられます。インドで最初に作られた仏像は香木の栴檀であったと伝わるところから、釈迦堂のお像も三国伝来の栴檀釈迦如来像と呼ばれています。

 法然上人は仏祖釈尊その人にまみえる敬慕の念でお像を仰ぎ、そこに集うさまざまな人たちと共に救われる仏道への思いを深められて行ったのです。

知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英

釈迦堂にお参りする人々(『法然上人行状絵図』巻四)

第7回「探し求める道の手がかり」