音や声を受けとめるのは耳のはたらきですが、例えば音楽を聞く時に感じるように、音や声の波動は、全身を包んで触覚的にも心に染み入ります。空から降った雨が地面に染み入り、時を経て地表に染み出るように、外から内に入ったものはその中をめぐり、また外に現れます。特に人の声は、心を温かく包む丸い形になったり、心に突き刺さる三角の形になったり、転がるサイコロのように、苦悩を訴える時には、すぐに止まる四角い形になったりして、心にはたらきかけます。
言葉を乗せた声は、それが他人の声であれ自分の声であれ、強弱や高低の起伏を伴い心を動かす力をもっています。浄土教のお祖師である中国廬山の慧遠法師は、お念仏の声は私たちの心を叩き動かし、塵ほこりを追い払って、心を朗らかにすると語っています。使い方によっては、尊くもなり恐ろしくもなる心という生きものを持った人は、生まれた時から命が終わるまで、声を通して育つという自然な道筋(法然道理)のもとで暮らしています。
仏道実践の中で声を用いるものとしては、お経を読む読誦、ダラニをとなえる念誦、仏やボサツの名号をとなえる称名などがあります。仏教だけでなく、例えばギリシャ正教というキリスト教の一派では、祈りの妨げにならないよう、音の出ない布製の数珠(コンボスキニオン)を使って、心を集中させながら神の名を繰り返しとなえる祈りの行を実践します。
法然上人が修行をされた天台宗では、欲望を制御して心の乱れを静め(止)、澄んだ智慧の眼で真理を体得する(観)、止観という行を実践します。
例えば、「止」という字に数字で一番小さい「一」を組み合わせると「正」という字になるように、世界と自己の姿を正しく見極めるために、そのような一旦停止の手順を踏むのです。ただ、中国天台宗の祖に当たる智顗の『摩訶止観』では、そうした止観の行の最中に疲れたり、病に苦しめられたり、眠りに襲われた時には、それに対処するために称名念仏がすすめられています。
止観の補助的な行とはいえ、そこには称名念仏の声に、疲れや、病苦や、眠気などを緩和するはたらきがあることへの注視があります。また日本天台宗の恵心僧都源信の『往生要集』では、自分自身が阿弥陀仏の眉間の白毫から放たれる光明の中に在ることを観想する往生行が説かれますが、そうした実践をなしえない者のためには称名念仏がすすめられています。
静寂な黒谷の別所に隠棲され、膨大な仏典と向き合う法然上人が、特に心をよせられたのが、恵心僧都の『往生要集』だったのです。というのは、そこには天台仏教の伝統の教えを底辺としながらも、私たちの誰もが行い易い称名念仏がすすめられていたからです。
私たちが「私たち」という言葉を使う時、そこには小は家族や友人から、大はあらゆる人々、さらにはいのちあるすべての生きものを含めることができます。そういう心の容量の拡大は慈悲から生まれます。仏教ではその慈悲を仏道の根本とするのです。法然上人が久しぶりに静寂な比叡山を下り、嵯峨の釈迦堂にお参りをした折、仏法に救いを求める、その心を同じくする「私たち」を目の当たりにされ、広く開かれた「私たちの仏教」への思いを深められたのです。
法然上人にとって、何時でも、何処でも、口から出て耳に入り、心を動かし変心させて行く称名念仏こそ、長い間探し求めていたものだったのです。ただ、止・観という誰もが容易に取り組めるわけではない行と学を底辺としない、補助的な行でもない、独り立ちする称名念仏の、確かな教理の裏付けと、実証を求めて、法然上人は『往生要集』に引用される唐の善導大師の教えにさかのぼって行かれるのです。
知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英

『往生要集』を精読する法然上人(『法然上人行状絵図』巻六)