私たち仏教徒の暮らしは、宗派を超えて、みほとけを念って忘れない念仏を離れてはありえません。そこで、仏道の歩みで大切にされてきた念仏の念という言葉に目を向けてみたいと思います。
「念」の字を構成する「今」は、蓋や栓の形が元になっています。従って「今」という字は、箱や瓶などの器を前提としています。「含」や「吟」の字では口が器に当たり、「念」の字では心が器に当たり、「貪」の字では貝が器に当たります。食べ物や飲み物を口に入れて、漏れないように蓋をしたのが「含」の字。上にかぶせた蓋が横にずれて、口から声が漏れたところが、詠うなどを意味する「吟」の字。心という器に大事なものを入れて、漏れないように蓋をしたのが「念」の字。ですから、念には念を入れるとか、念を押すとか、念頭に置くと言うのは、心の器から大事なものが漏れないようにすることなのです。昔、貝は貨幣の役目をしましたから、むさぼりの煩悩を表す「貪」の字は、財を失わないよう、しっかりとガードした字形ということになります。
良薬は口に苦しと言いますが、苦さによって支配された口の中も、甘いものを入れると苦さが追放され、甘さによって口の中が満たされます。それと同じことが心の器に蓋をした形の「念」についても言えます。大事なことは、心という器に何を迎え入れるのかということです。例えば箱にお香を入れると、その香りが染み込みなじんで香箱になります。「器」という字には、器量とか人物という意味もあります。心の器もそこに迎え入れたものが染み込みなじむと、それで以て人柄が作られて行きます。インドのお経でも「念」のはたらきが、このような器(バージャナ)の譬えで説かれます。
このように見てくれば、念仏とは心という器にみほとけをお迎えし、主として留まって下さるようにすること、と言えます。そこを法然上人は「念仏を主人とし、煩悩を客人とす」と説いておられます。主人とはすべてのことを取り仕切る人のことですから、念仏を心の主人とすれば、どのような道を歩むにも心強い導きと護りが得られます。
ところで一口に念仏と言っても、仏の名号を声に出して称える称名念仏、仏像や仏画を前にして仏を念ずる観像念仏、智慧と慈悲で荘厳された仏の妙なるお姿を念ずる観相念仏、仏が悟った世界の真実を念ずる実相念仏など、さまざまな形があり、そうした念仏が各宗派で実践されてきたのです。
法然上人が特に心を寄せられた仏典は、上人より90年ほど前に出られた恵心僧都源信の『往生要集』でした。そこには奥深い仏の教えをしっかり受け止める資質(機根)を持ち合わせていなくても、苦しみ悩みの世界を離れ、安穏の世界に至ることのできる道として、阿弥陀仏の浄土への往生がすすめられています。恵心僧都はそれには、「往生の業には念仏を本となす」との指針を示しておられます。その場合の念仏は、先にあげた四種の念仏でいえば心を静めた上での観相念仏であり、それをなし得ない者のためには称名念仏がすすめられています。
『往生要集』を精読された法然上人は、そこに引用されている唐の善導大師の、「浄土に往生したいという願いと、そのための行を一心に相続すれは、十人がうち十人が、百人がうち百人が、すべて苦悩の世界を離れて安穏の浄土に往生することが出来る」(『往生礼讃』)という言葉に強くひかれ、それを手掛かりにして善導大師の教えに傾倒されて行くのです。
知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英

後日、暗夜に仏典に向かう上人の眼から光が(『法然上人行状絵図』巻八)