法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

御詠
附録

御詠ごえい

(勅伝第三十・三四・二一等)

はる

さへられぬ ひかりもあるを おしなべて
 へだてがほなる あさがすみかな

さえぎることのできない光もあるのに、全て〔の光を〕一様に、遮っているかのような顔つきをしている朝霞でありますね。

※さへられぬ光=山や谷にも遮られず、あらゆる念仏者を照らして利益する、阿弥陀仏の「無碍光むげこう」。

なつ

われはただ ほとけにいつか あふひぐさ
 こころのつまに かけぬぞなき

私はただ仏にいつか会う日のことを、〔賀茂の葵祭りの日に、いたるところに飾られている〕ふたば葵のように、心の端に掛けて〔思わ〕ない日はありません。

※あふひ=「葵(ふたば葵)」と「会う日」との掛詞。
※こころのつま=「心のつま」と「心の中でいとしく思っている妻(または夫)」との掛詞。

あき

阿弥陀仏あみだぶに そむるこころの いろにいでば
 秋  あきこずえの たぐひならまし

阿弥陀仏に染まる〔私の〕心が色に現れ出るとしたら、秋の〔紅葉していく〕梢のようでありましょう。

ふゆ

ゆきのうちに ほとけ御名みなを となふれば
 つもれるつみぞ やがてきえぬる

雪〔が降る〕中で〔阿弥陀〕仏の名号を称えれば、積もっている罪でもたちどころに消えてしまうのです。

仏法ぶっぽううて身命しんみょうつるとえること

かりそめの 色のゆかりの こいにだに
 あふにはをも をしみやはする

仏の教えに逢って身命を捨てると説かれていることについて

一時的な情愛を縁とする恋においてすら、〔相手に〕逢うためには身を惜しみましょうか。〔いや、惜しみません。〕

※仏法に…云える事=雪山童子せっせんどうじが仏法を聞くために、羅刹らせつに身を与えたという、『大般涅槃経』(北本)十四巻(『大正蔵』十二、四五〇〜四五一頁)に基づく。
※色=男女の情愛や仏教用語の「しき(肉体)」の意。
※をしみやはする=反語的表現。「まして仏法に逢うためには身命を惜しむべきでない」の意。

勝尾寺かちおでらにて

しばに けくれかかる 白雲しらくも
 いつむらさきの いろにみなさん

うた玉葉集ぎょくようしゅう

勝尾寺にて

粗末な庵を朝夕におおう白雲が、いつ紫雲と見えるでしょうか。

この歌は『玉葉和歌集』に入撰している。

※勝尾寺=大阪府箕面市に現存する真言宗の寺。上人が流罪の後、三年間を過ごされたとされる。
※柴の戸=柴で作った粗末な戸。転じて、粗末なすみか。
※明け=「あけ」は戸の縁語。
※むらさきの色=阿弥陀仏の来迎に伴う紫雲をさす。
※玉葉集=西暦一三一三年完成の勅撰和歌集。

極楽ごくらく往生おうじょう行業ぎょうごうにはぎょうをさしおきて
ただ本願ほんがん念仏ねんぶつをつとむべしとうことを

あみだと いふよりほかくに
 なにはのこともあしかりぬべし

極楽に往生するための行としては、他の修行をさしおいて、ただ本願の念仏こそに励むべきであるということを

南無阿弥陀仏と称える他は、いかなることも良くないでしょう。

※津の国=摂津の国。「なには(難波)」の枕詞。
※なにはのことも=「難波のことも」と「どのようなことも」との掛詞。
※あしかり=「悪しかり」と難波の縁語「芦刈」との掛詞。

極楽ごくらくへ つとめてはやく いでたたば
 のおはりには まゐりつきなん

極楽へ、念仏に励んで早く出立すれば、我が身の終わる時には参り着くでしょう。

※つとめて=「励んで」と「早朝」との二義を詠みこむ。
※身のおはり=「の終り(午前十一時前)」との掛詞。

阿弥陀仏あみだぶと こころ西にしに うつせみの
 もぬけはてたる こえぞすずしき

南無阿弥陀仏と称える心はすでに西方にあります。現世にありながら、蝉の抜け殻のようにすっかりうつろになった念仏者の声の、なんと澄んでいることでしょうか。

※うつせみ=「現身」と「蝉の抜け殻」との二義を詠みこむ。
※すずしき=極楽の異名、「すずしきかた」と関係するか。

光明遍照こうみょうへんじょう 十方世界じっぽうせかい 念仏衆生ねんぶつしゅじょう 摂取不捨せっしゅふしゃこころ

月影つきかげの いたらぬさとは なけれども
 ながむるひとの こころにぞすむ

うた続千載集しょくせんざいしゅう

「阿弥陀仏の光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の意味を

月の光のとどかぬ人里はないけれども、眺める人の心にこそすみわたります。

この歌は『続千載和歌集』に入撰している。

※光明遍照…摂取不捨=前篇第二十六章参照。
※すむ=「すむ(住む)」は里の縁語。
※続千載集=西暦一三二〇年完成の勅撰和歌集。

さんじんうち至誠心しじょうしんこころ

往生おうじょうは よにやすけれど みなひと
 まことのこころ なくてこそせね

三心の中の至誠心の意味を

極楽往生ははなはだ容易ですが、どの人も真実の心がないからこそ往生しないのです。

※三心=至誠心・深心・廻向発願心。
※みな人の=「往生しない人はみな」の意。

睡眠すいみんとき十念じゅうねんとなうべしとこと

阿弥陀仏あみだぶと 十声称とこえとなえて まどろまん
 ながきねぶりに なりもこそすれ

眠りに入る前に十念を称えるべきであるということを

南無阿弥陀仏と十声お称えしてしばし眠るとしましょう。この眠りが永遠のものとなるかもしれませんから。

上人しょうにんてずからたまえりける

とせふる 小松こまつのもとを すみかにて
 無量寿仏むりょうじゅぶつの むかへをぞまつ

法然上人がみずからお書きになりました。

長い年月を経た老木「小松」のもとを住処として、阿弥陀仏のお迎えを待つとしましょう。

※千とせ=千年。長い年月。
※小松のもと=一時期法然上人の住まわれた小松殿。現在の京都市東山区小松谷正林寺付近。
※無量寿仏=「量り知れない寿命をもつ仏」の意。阿弥陀仏の別名。
※まつ=「待つ」と「松」との掛詞。松は、長寿や繁栄の象徴。 「千とせ」とともに「無量寿」の縁語として用いられているか。

おぼつかな たれかいひけん こまつとは
 くもをささふる たかまつのえだ

妙なことです。誰が言ったのでしょうか、「小松」などと。この、雲をささえんばかりにのびた高い松の枝を指して。

※おぼつかな…=流罪の際に四国の子松と高松との地名が詠みこまれたとする説(『法然上人行状画図翼讃』、『浄全』十六・四七七頁下)と、小松殿で詠まれたとする説(『四巻伝』巻二、『浄全』十六・六六頁下)とがある。

いけみずひとこころに たりけり
 にごりすむこと さだめなければ

池の水は人の心に似ています。濁ったり澄んだりといっこうに落ち着かないのですから。

うまれては まづおもひいでん ふるさとに
 ちぎりしともの ふかきまことを

往生すれば真っ先に思い出すでしょう。故郷の娑婆世界で、極楽での再会を誓いあった友の深いまことの心を。

※思ひいでん=極楽往生した人に、過去世を思い起す能力(宿命智通しゅくみょうちつう)が具わることによる。

阿弥陀仏あみだぶと もうすばかりを つとめにて
 浄土じょうど荘厳しょうごんるぞうれしき

南無阿弥陀仏と称えることだけを勤めとして、浄土の荘厳を見ることができるのは喜ばしい。

※浄土の荘厳=宝地ほうじ宝池ほうちなどの美しい飾りつけ。
※見るぞ=往生後に見るとする解釈と、この世での三昧発得さんまいほっとく(極楽の聖衆しょうじゅや荘厳をありありと見ること)とする解釈(『九巻伝』、『浄全』十七・一三八頁上)とがある。

つゆは ここかしこにて きえぬとも
 こころはおなじ はなのうてなぞ

朝露のようにはかない命が、離ればなれになって消えてしまっても、互いに志すところは、同じ極楽の蓮のうてななのです。

※露の身は…=流罪となった上人に、九条兼実くじょうかねざね(一一四九-一二〇七)が別れを惜しんで送った歌への返歌。

これをん をりをりごとに おもひいでて
 南無阿弥陀仏なむあみだぶと つねにとなへよ

この法語を見るたびごとに思い出し、南無阿弥陀仏と常に称えなさい。

※これを見ん…=「十二箇条の問答」の末尾(『浄全』九・五八五頁上)に附される歌。

いけらば念仏ねんぶつこうつもり
 しなば浄土じょうどへまゐりなん
とてもかくてもには
 おもひわづらふことぞなき

生きていれば念仏の功徳が積み重なり、死ねば浄土へ参るのです。いずれにしてもこの身には、思い悩むことが何もありません。

※いけらば…=七五調四節の「今様いまよう」の形式をとる。