御法語
観無量寿経に曰く、「一々の光明、遍く十方の世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨て給わず」。これは光明、ただ念仏の衆生を照らして、余の一切の行人をば照らさずというなり。
但し余の行をしても、極楽を願わば、仏光照らして摂取し給うべし。いかがただ念仏の者ばかりを選びて照らし給えるや。
善導和尚、釈して宣わく、「弥陀の身色は金山の如し。相好の光明、十方を照らす。唯念仏の者のみ有りて光摂を蒙る。当に知るべし、本願最も強きを」。
念仏はこれ弥陀の本願の行なるが故に、成仏の光明、還りて本地の誓願を照らし給うなり。余行はこれ本願にあらざるが故に、弥陀の光明、嫌いて照らし給わざるなり。
今、極楽を求めん人は、本願の念仏を行じて、摂取の光に照らされんと思し食すべし。これにつけても念仏大切に候。よくよく申させ給うべし。
現代語訳
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観無量寿経に曰く、「一々の光明、遍く十方の世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨て給わず」。これは光明、ただ念仏の衆生を照らして、余の一切の行人をば照らさずというなり。
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『観無量寿経』には、「〔阿弥陀仏の〕一つ一つの光明は、遍く十方の世界を照らし、念仏を称える衆生を救い取って、捨てることがない」とあります。これは、光明が念仏を称える衆生だけを照らして、他の一切の行者を照らさないということです。
※一々の…給わず=『観無量寿経』第九「真身観文」(『浄全』一・四四頁)。
※これは…いうなり=『選択本願念仏集』第七「光明唯摂念仏行者篇」(『浄全』七・三三頁)参照。 -
但し余の行をしても、極楽を願わば、仏光照らして摂取し給うべし。いかがただ念仏の者ばかりを選びて照らし給えるや。
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ただし、他の行を修めても極楽を願うならば、仏の光が照らして救済されてもよいはずです。どうして、ただ念仏する者だけを選んで、照らされるのでしょうか。
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善導和尚、釈して宣わく、「弥陀の身色は金山の如し。相好の光明、十方を照らす。唯念仏の者のみ有りて光摂を蒙る。当に知るべし、本願最も強きを」。
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善導和尚は解釈して言われます。「阿弥陀仏の身体の色は黄金の山のようである。〔一つ一つの〕相好から放たれる光明はあらゆる方角の世界を照らす。ただ念仏を称える者だけが光明の救いをいただく。〔阿弥陀仏の〕本願のはたらきが最も強力だと理解すべきである」と。
※弥陀の…強きを=『往生礼讃』(『浄全』四・三七二頁上)。
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念仏はこれ弥陀の本願の行なるが故に、成仏の光明、還りて本地の誓願を照らし給うなり。余行はこれ本願にあらざるが故に、弥陀の光明、嫌いて照らし給わざるなり。
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念仏は阿弥陀仏の本願の行であるので、成仏された後の光明が、ひるがえって、成仏される以前の念仏往生の誓願を照らされるのです。他の行は本願ではないので、阿弥陀仏の光明は〔これを〕選び捨てて照らされないのです。
※成仏の…給うなり=「阿弥陀仏は、法蔵菩薩であった時に立てた念仏往生の本願を思い起こし、念仏者を照らして救い取る」という趣意。前篇第八章「摂取不捨の誓い」、後篇第二十五章「不捨の誓約」および『逆修説法』「二七日」(『浄全』九・三九六頁上)参照。誓願(本願)については前篇第五章参照。
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今、極楽を求めん人は、本願の念仏を行じて、摂取の光に照らされんと思し食すべし。これにつけても念仏大切に候。よくよく申させ給うべし。
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今、極楽を求める人は、本願の念仏を修めて、救いの光に照らされようとお思いになって下さい。このことからしても念仏は大切です。よくよくお称えになって下さい。