御法語
およそ生死を出ずる行、一つにあらずといえども、まず極楽に往生せんと願え。「弥陀を念ぜよ」という事、釈迦一代の教えに普く勧め給えり。
その故は、阿弥陀仏、本願を発して、「我が名号を念ぜん者、我が浄土に生まれずば正覚を取らじ」と誓いて、すでに正覚を成り給う故に、この名号を称うる者は、必ず往生するなり。
臨終の時、もろもろの聖衆と共に来たりて、必ず迎接し給う故に、悪業として障うるものなく、魔縁として妨ぐる事なし。男女貴賤をも簡ばず、善人悪人をも分かたず、至心に弥陀を念ずるに、生まれずという事なし。
譬えば重き石を船に載せつれば、沈む事なく、万里の海を渡るがごとし。罪業の重き事は石のごとくなれども、本願の船に乗りぬれば、生死の海に沈む事なく、必ず往生するなり。
ゆめゆめ我が身の罪業によりて、本願の不思議を疑わせ給うべからず。これを他力の往生とは申すなり。
現代語訳
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およそ生死を出ずる行、一つにあらずといえども、まず極楽に往生せんと願え。「弥陀を念ぜよ」という事、釈迦一代の教えに普く勧め給えり。
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おおよそ、迷いの境涯を離れる行は少なくありませんが、何よりもまず「極楽に往生しよう」と願いなさい。「阿弥陀仏の名号を称えよ」ということは、釈尊が生涯にわたって説かれた教えのあらゆるところでお勧めになっています。
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その故は、阿弥陀仏、本願を発して、「我が名号を念ぜん者、我が浄土に生まれずば正覚を取らじ」と誓いて、すでに正覚を成り給う故に、この名号を称うる者は、必ず往生するなり。
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というのも、阿弥陀仏が本願を立てて、「私の名号を称える者が、私の浄土に生まれないならば、〔決して〕覚りを得ることはあるまい」と誓われた上で、すでに覚りを成就しておられますので、この名号を称える者は必ず往生するからです。
※我が名号…取らじ=『無量寿経』第十八願の要約(『浄全』一・七頁)。前篇第五章参照。
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臨終の時、もろもろの聖衆と共に来たりて、必ず迎接し給う故に、悪業として障うるものなく、魔縁として妨ぐる事なし。男女貴賤をも簡ばず、善人悪人をも分かたず、至心に弥陀を念ずるに、生まれずという事なし。
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臨終の時、〔阿弥陀仏は、〕諸菩薩とともにおいでになり、必ず〔浄土へ〕迎え取って下さいますから、いかなる悪業も障害とはならず、どのような悪魔も妨げることはありません。男女の別や、身分の高低にかかわらず、善人・悪人の区別もなく、心を込めて阿弥陀仏〔の名号〕を称えるならば、〔浄土に〕生まれないということはありません。
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譬えば重き石を船に載せつれば、沈む事なく、万里の海を渡るがごとし。罪業の重き事は石のごとくなれども、本願の船に乗りぬれば、生死の海に沈む事なく、必ず往生するなり。
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たとえば、重い石も、船に載せたならば、沈むことなく、はるかな海路を渡るようなものです。〔私たちの〕罪業の重いことは石のようですが、本願の船に乗れば、輪廻の海に沈むことなく、必ず往生するのです。
※重き石を…ごとし=龍樹『大智度論』(『大正蔵』二五・三一六頁上)参照。
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ゆめゆめ我が身の罪業によりて、本願の不思議を疑わせ給うべからず。これを他力の往生とは申すなり。
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自分に罪深い行いがあるからといって、決して本願の、人知を超えた力をお疑いになってはなりません。これを他力による往生と言うのです。