法然上人は建久八年(六十五歳)頃に病気をされます。回復に向かわれたものの、しばらくの間、お説法には出向かれなかったのです。そのため上人の帰依者であり庇護者であった九条兼実は、たいそう心配して使者をつかわし、「これまで浄土の教えを受けたまわってきたけれども、まだ心の底に納めるまでには至っていません。そこで念仏往生の教えの要文を書き留めて頂ければ、それを通してお目にかかっている思いになれ、また形見にすることも出来ます」と願い出たのです。その要請を受けてまとめられたのが主著となる『選択本願念佛集』です。
法然上人が冒頭の「選択本願念佛集」という書名と、その教えの核心となる
「南無阿弥陀佛 往生之業念佛為先」(往生の業には念佛を先と為す)
という十四文字を書かれ、本文の全十六章は上人の口述を門弟が筆記したのです。このようにして、末法の世の誰もが生死の苦海を〈速やかに〉離れることのできる教えが、経文や浄土教祖師の文、そして念仏体験の裏打ちを基にしてまとめられたのです。
ところでお経では、この世に生まれた人を苦しみ多き大海に漕ぎ出す舟に譬えています。果てしない大海を無事に渡るには、進むべき方向や現在地を確認するなど、航海術を身につけなければなりません。ところが従来の苦海を渡る術は、高度な知と行を必要とし、誰もが容易に習得出来るものではなかったのです。
法然上人は誰もが苦海を渡ることの出来る術について、『選択本願念佛集』(以下『選択集』と略)で
「津を問う者には、示すに西方の通津を以ってし、行を尋ねる者には、念佛の別行を以ってす」
(苦海を渡るための大事な港を問う人には、西方浄土に向かう港を示し、苦海を渡るための行を尋ねる人には、とりわけ称名念仏をすすめる)
と述べておられます。
つまり苦海を渡る方法を尋ねる人には、自力による舟をすすめるのではなく、称名念仏によって阿弥陀仏の本願の船に乗り、浄土という安穏の地を目ざすようにとすすめられたのです。称名念仏は阿弥陀仏がどうすれば人々を安穏の地に導くことができるであろうかと、長い長い熟慮(五劫思惟)の末に、さまざまな行の中から願いをこめて選ばれた行であるところから、法然上人は選択本願念仏と呼ばれたのです。
阿弥陀仏が選ばれたお念仏によって、誰もが等しく安穏の浄土に渡れるところから、法然上人は測り難い阿弥陀仏のみこころ(聖意)によって選ばれた称名念仏は、劣った行ではなく勝れた行であり、難しい行ではなく易き行であると語っておられます。
『選択集』は上人の滅後、間もなく木版刷り本となり、多くの人々に読まれるようになります。それは日本の仏教史上、稀なことだったのです。しかし高いハードルもなく、声のお念仏であらゆる人々が救われるという『選択集』の教えは、当時の仏教界からは理解されず、出版本やその版木は集められ焼却されるという暴挙に遭います。それでも『選択集』はその後も出版され続けたのです。
言語学者の新村出(『広辞苑』の編者)は『選択集』への弾圧を、江戸幕府が寛政年間に西洋の書物を禁じたことや、在野の知識人で海防護国論を唱えた林子平の書物を没収したことと共に、日本印書史上の三大書難としてあげ、
「噫書は以て焚くべく、版は以て毀つべきも、聖哲の説は得て滅ぼすべからず」
(ああ、たとえ書物は焼かれても、その版木は壊されても、まことの道を説く高徳の人の教えは受け入れられ滅ぼすことなど出来ない)
と、『選択集』が人々の求めに応じて出版され続け、読まれて来たことの偉業を、「我国印書史上に特筆大書するに足るべき也」とたたえています。
知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英
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『選択集』を口述する法然上人(『法然上人行状絵図』巻十一)