釈尊は出家をする前の若き日、老人に出会っては若さのおごりが消え、病人に出会っては健康のおごりが消え、死者に出会っては命のおごりが消えたと伝えられています。おごりが消えれば見えてくるこの世の真実の姿をわが身に照らし合わせ、頂いた命の使い道(使命)を尋ねる、そこに仏教の出発点があります。
伝記によれば、そのような道を歩まれた法然上人が大きな病を体験されたことが二度ありました。
一度は老いの道にさしかかった六十六歳の時で、そのころ「没後遺誡文」という遺言状を書いておられますから、病状がよほど重かったものと思われます。加齢が進む中での病の体験は、心を一層研ぎ澄ませる機会となります。そのころ上人はお念仏を通して浄土の世界を感見されたり、夢中で善導大師と出会う体験をされたり、病後の体調を心配した帰依者の九条兼実からの要請で、主著となる『選択集』を撰述されています。
もう一度は、一部の門弟たちの傍若無人の振る舞いが原因で念仏停止の訴えが相次いで起こった七十三歳の時です。その翌々年には上皇の逆鱗に触れた門弟の行為の責任を問われ四国へ流罪となり、五年ほど都を離れられます。その出来事は老いの身には重い負担であったに違いありません。
法然上人のご法語には、いつ訪れるか分からない命の終わりへの心構えを説くものが見られます。例えば
「念仏の功を積むべきなり。習い先よりあらざれば、臨終正念も難し。常に臨終のおもいをなして、臥すごとに十念をとなうべし。されば寝ても覚めても忘るることなかれといえり」
(お念仏の功徳を積むべきです。そういう日頃の習慣がなければ、最期になって往生への確かな念いを持てなくなります。いつもこれが最期だという念いを懐いて、眠りにつくたびにお十念を称えるようにしなさい。だから眠る時も目覚めている時も、そのことを忘れないようにというのです)
とか、
「阿弥陀仏と十声となえてまどろまん 永き眠りになりもこそすれ」
(南無阿弥陀仏と十声のお念仏を称えて眠るようにしよう。再び眼を開くことのない永い眠りになるかもしれないのだから)
という御歌も詠まれています。このようにお念仏を命の終わりへのまなざしの元にすすめる教えは、その後、二祖聖光上人や三祖良忠上人によって念死念仏という言葉で受け継がれ、それが往生浄土を願う心を確かなものにする用心として伝えられていきます。
流罪が許され帰洛した翌年、齢八十になられた法然上人は、老衰のために食欲は減退し、お念仏の声と往生についての話以外は口になさらず、眠りの間も舌と口は絶えず動いていたとのことです。善導大師は人々をあまねく救おうとする阿弥陀仏の本願を、釈尊が末法の世に残された遺跡であると語られました。法然上人は終末に高弟信空上人からご入滅後の遺跡について問われたのに対し、本願によって選ばれたお念仏をする所が私の遺跡であると答えておられます。
法然上人はご臨終に、みほとけの本願の誓いどおり、浄土からのお迎えが現れたことを語られ、建暦二年(一二一二)正月二十五日、安らかに往生の本懐を遂げられたのです。ご生涯をお慈悲に縛られ、あらゆる人々に救いの手を差しのべられた釈尊のお歳と同じく、法然上人も誰もがお念仏によって救われるという阿弥陀仏の平等のお慈悲を広め、春秋八十のご生涯を閉じられたのです。
知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英

浄土からのお迎えを仰がれる法然上人(『法然上人行状絵図』巻三十七)