法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

前篇
第十章

小消息こしょうそく

末法の世では、わが身の善悪を顧みず、教えを信じ、往生を求めて念仏を多く称え、罪を犯さないように努めよ。

(勅伝第二十一巻)

御法語

末代まつだい衆生しゅじょう往生極楽おうじょうごくらくにあててるに、ぎょうすくなしとてもうたがうべからず。一念十念いちねんじゅうねんりぬべし。罪人ざいにんなりとてもうたがうべからず。「罪根ざいこんふかきをもきらわじ」とのたまえり。

ときくだれりとてもうたがうべからず。法滅以後ほうめついご衆生しゅじょう、なおもて往生おうじょうすべし。いわん近来きんらいをや。わろしとてもうたがうべからず。「自身じしんはこれ、煩悩ぼんのう具足ぐそくせる凡夫ぼんぶなり」とのたまえり。

十方じっぽう浄土じょうどおおけれど、西方さいほうねがうは、十悪じゅうあく五逆ごぎゃく衆生しゅじょうまるるゆえなり。諸仏しょぶつなか弥陀みだしたてまつるは、三念五念さんねんごねんいたるまで、みずか来迎らいこうたまゆえなり。諸行しょぎょうなか念仏ねんぶつもちうるは、ほとけ本願ほんがんなるゆえなり。いま弥陀みだ本願ほんがんじょうじて往生おうじょうしなんに、がんとしてじょうぜずとことあるべからず。本願ほんがんじょうずることは、信心しんじんふかきによるべし。

がた人身にんじんけて、がた本願ほんがんいて、おこがた道心どうしんおこして、はながた輪廻りんねさとはなれて、まれがた浄土じょうど往生おうじょうせんことよろこびのなかよろこびなり。

つみ十悪五逆じゅうあくごぎゃくものまるとしんじて、少罪しょうざいをもおかさじとおもうべし。罪人ざいにんなおまる、いわんや善人ぜんにんをや。ぎょう一念十念いちねんじゅうねんなおむなしからずとしんじて、無間むけんしゅすべし。一念いちねんなおまる、いわん多念たねんをや。

阿弥陀仏あみだぶつ不取正覚ふしゅしょうがくことば成就じょうじゅして、げんくにましませば、さだめて命終みょうじゅうとき来迎らいこうたまわん。釈尊しゃくそんは「善哉よきかなおしえにしたがいて生死しょうじはなる」と知見ちけんたまい、六方ろっぽう諸仏しょぶつは「よろこばしきかな証誠しょうじょうしんじて、不退ふたい浄土じょうどまる」とよろこたまうらんと。

てんあおしてよろこぶべし、このたび弥陀みだ本願ほんがんことを。行住坐臥ぎょうじゅうざがにもほうずべし、ほとけ恩徳おんどくを。たのみてもたのむべきは、「乃至十念ないしじゅうねん」のことばしんじてもなおしんずべきは、「必得往生ひっとくおうじょう」のもんなり。

現代語訳

末代まつだい衆生しゅじょう往生極楽おうじょうごくらくにあててるに、ぎょうすくなしとてもうたがうべからず。一念十念いちねんじゅうねんりぬべし。罪人ざいにんなりとてもうたがうべからず。「罪根ざいこんふかきをもきらわじ」とのたまえり。

末法の時代の衆生を、極楽に往生できるかできないかの能力に当てはめて考えるとき、行が少なくても、疑ってはなりません。一遍や十遍〔の念仏〕で充分なのです。〔悪業を犯す〕罪人であっても、疑ってはなりません。「罪深くても、分けへだてはしない」と説かれています。

※罪根…嫌わじ=法照『五会法事讃』(『浄全』六・六八六頁上)。

ときくだれりとてもうたがうべからず。法滅以後ほうめついご衆生しゅじょう、なおもて往生おうじょうすべし。いわん近来きんらいをや。わろしとてもうたがうべからず。「自身じしんはこれ、煩悩ぼんのう具足ぐそくせる凡夫ぼんぶなり」とのたまえり。

時代が下ったにしても、疑ってはなりません。仏教が滅んだ後の衆生でさえ往生することができるのです。まして末法の今については言うまでもありません。自身が悪くても、疑ってはなりません。「私たちは煩悩を具えた凡夫である」と説かれています。

※法滅…往生すべし=『無量寿経』だけは、法滅の時代にも、百年間残るとされる。後篇第四章参照。
※自身は…凡夫なり=善導『往生礼讃』(『浄全』四・三五四頁下)「深心」の解釈。後篇第十章参照。

十方じっぽう浄土じょうどおおけれど、西方さいほうねがうは、十悪じゅうあく五逆ごぎゃく衆生しゅじょうまるるゆえなり。諸仏しょぶつなか弥陀みだしたてまつるは、三念五念さんねんごねんいたるまで、みずか来迎らいこうたまゆえなり。諸行しょぎょうなか念仏ねんぶつもちうるは、ほとけ本願ほんがんなるゆえなり。いま弥陀みだ本願ほんがんじょうじて往生おうじょうしなんに、がんとしてじょうぜずとことあるべからず。本願ほんがんじょうずることは、信心しんじんふかきによるべし。

あらゆる方角に浄土は多くありますが、西方〔浄土〕を願うのは、十悪・五逆の罪を犯した衆生までもが生まれるからであります。様々な仏がおられるなかで、阿弥陀仏に救いを求めるのは、三遍や五遍〔しか念仏できずに死に臨む者〕に至るまで、自らお迎え下さるからであります。様々な行のなかで念仏を用いるのは、かの阿弥陀仏の本願〔の行〕だからです。今、阿弥陀仏の本願に乗じて往生したならば、いかなる願いも成就しないはずはありません。本願に乗じることは、信心の深さによります。

※十方に浄土多けれど=源信『往生要集』大文第三「極楽証拠」(『浄全』十五・六四頁下)。
※願=念仏者が往生を願う心であるとする解釈もある。

がた人身にんじんけて、がた本願ほんがんいて、おこがた道心どうしんおこして、はながた輪廻りんねさとはなれて、まれがた浄土じょうど往生おうじょうせんことよろこびのなかよろこびなり。

受け難い人間としての生を受け、遇い難い本願にめぐり合い、起こし難い覚りを求める心を起こして、離れ難い輪廻の境涯を離れ、生まれ難い浄土に往生すること、それは悦びのなかの悦びであります。

※道心=ここでは往生を願う心。

つみ十悪五逆じゅうあくごぎゃくものまるとしんじて、少罪しょうざいをもおかさじとおもうべし。罪人ざいにんなおまる、いわんや善人ぜんにんをや。ぎょう一念十念いちねんじゅうねんなおむなしからずとしんじて、無間むけんしゅすべし。一念いちねんなおまる、いわん多念たねんをや。

罪については、「十悪・五逆の罪を犯した者でも生まれる」と信じながら、「少しの罪も犯すまい」と思いなさい。罪人でさえ生まれます。まして善人は言うまでもありません。行については、「一遍や十遍の念仏でも必ず実を結ぶ」と信じながら、絶え間なく称えなさい。一度の念仏でさえ往生します。まして多く念仏する者は言うまでもありません。

阿弥陀仏あみだぶつ不取正覚ふしゅしょうがくことば成就じょうじゅして、げんくにましませば、さだめて命終みょうじゅうとき来迎らいこうたまわん。釈尊しゃくそんは「善哉よきかなおしえにしたがいて生死しょうじはなる」と知見ちけんたまい、六方ろっぽう諸仏しょぶつは「よろこばしきかな証誠しょうじょうしんじて、不退ふたい浄土じょうどまる」とよろこたまうらんと。

阿弥陀仏は、「〔四十八の本願が叶わない限りは、〕正しい覚りを開くまい」という〔誓いの〕言葉を成就して、現にかの極楽国におられますので、必ず命の終わる時にはお迎え下さるでしょう。釈尊は、「よいことだ。〔念仏者は〕私の教えに随って、迷いの境涯を離れる」とお見通しになり、六方の世界におられる諸仏は、「悦ばしいことだ。私たちの証言を信じて、覚りに向かって退くことのない極楽浄土に生まれる」とお悦び下さっているでしょう。

※我が証誠=前篇第七章参照。
※給うらんと=「と」は理解しづらい。ここでは異本に従い除外して訳した。

てんあおしてよろこぶべし、このたび弥陀みだ本願ほんがんことを。行住坐臥ぎょうじゅうざがにもほうずべし、ほとけ恩徳おんどくを。たのみてもたのむべきは、「乃至十念ないしじゅうねん」のことばしんじてもなおしんずべきは、「必得往生ひっとくおうじょう」のもんなり。

天を仰ぎ、地にひれ伏して悦びなさい、この生涯で阿弥陀仏の本願にめぐり合えたことを。立ち居起き臥しにも報いるべきです、かの阿弥陀仏の恩徳に。頼みとした上になお頼みとすべきは、「最低十念する人でも〔救い取ろう〕」というお言葉であります。信じた上にもなお信じるべきは、「〔念仏すれば〕必ず往生することができる」という一文であります。

※乃至十念=本章「一念十念」参照。