法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

後篇
第一章

難易二道なんいにどう

浄土門は、苦しみの境涯を捨てて極楽へ生まれる教えである。覚り難い聖道門を捨て、往き易い浄土門に入るべきである。

(浄土宗略抄)

御法語

浄土門じょうどもんというは、この娑婆世界しゃばせかいいとてて、いそぎて極楽ごくらくまるるなり。

くにまるることは、阿弥陀仏あみだぶつちかいにて、ひと善悪ぜんなくえらばず、ただほとけちかいをたのたのまざるによるなり。このゆえ道綽どうしゃくは、「浄土じょうど一門いちもんのみりて通入つうにゅうすべきみちなり」とのたまえり。されば、このごろ生死しょうじはなれんとおもわんひとは、しょうがた聖道しょうどうてて、やす浄土じょうどねがうべきなり。

この聖道しょうどう浄土じょうどをば、難行道なんぎょうどう易行道いぎょうどうづけたり。たとえをりてこれをうに、難行道なんぎょうどうは、けわしきみちを、かちにてくがごとし。易行道いぎょうどうは、海路かいろふねりてくがごとしとえり。

足萎あしなえ、しいたらんひとは、かかるみちにはかうべからず。ただふねりてのみ、かいのきしにはくなり。

しかるに、このごろのわれらは、智慧ちえまなこしい、行法ぎょうぼうあしえたるともがらなり。聖道難行しょうどうなんぎょうけわしきみちには、そうじてのぞみをつべし。ただ弥陀みだ本願ほんがんふねりて生死しょうじうみわたり、極楽ごくらくきしくべきなり。

現代語訳

浄土門じょうどもんというは、この娑婆世界しゃばせかいいとてて、いそぎて極楽ごくらくまるるなり。

浄土門とは、この娑婆世界を厭い捨て、急いで極楽に生まれる〔という教え〕です。

くにまるることは、阿弥陀仏あみだぶつちかにて、ひと善悪ぜんなくえらばず、ただほとけちかいをたのたのまざるによるなり。このゆえ道綽どうしゃくは、「浄土じょうど一門いちもんのみりて通入つうにゅうすべきみちなり」とのたまえり。されば、このごろ生死しょうじはなれんとおもわんひとは、しょうがた聖道しょうどうてて、やす浄土じょうどねがうべきなり。

その国に生まれることは、阿弥陀仏の誓いによるのであって、人の善悪にかかわりなく、ただ、仏の誓いを頼みとするかしないかにかかっているのです。それゆえに、道綽禅師は「ただ浄土の一門だけが通入することのできる道である」と言われたのです。ですから今の時代、迷いの境涯を離れたいと望む人は、覚りを得ることの困難な聖道門を捨てて、往くことの容易な浄土門を願うべきです。

※浄土の一門…なり=道綽『安楽集』巻上(『浄全』一・六九三頁上)。
※通入=「幅広く上は菩薩から下は五逆の罪人までもが、遠く釈尊在世から末法万年の後百年まで、共通して(についてもについても分け隔てなく)入る」の意。後篇第四章、「往生大要抄」(『浄全』九・四八三頁)参照。なお時と機については後篇第三章参照。
※このごろ=「人の能力の劣る末法の時代において」の意。前編第二十章近来」参照。

この聖道しょうどう浄土じょうどをば、難行道なんぎょうどう易行道いぎょうどうづけたり。たとえをりてこれをうに、難行道なんぎょうどうは、けわしきみちを、かちにてくがごとし。易行道いぎょうどうは、海路かいろふねりてくがごとしとえり。

この聖道門と浄土門とは〔それぞれ〕「難行道」「易行道」とも呼ばれています。たとえば、難行道は険しい道を徒歩で行くようなもので、易行道は海路を船に乗って行くようなものであると言われています。

※難行道は…ごとし=『十住毘婆沙論』「易行品」(『大正蔵』二六・四一頁中)参照。

足萎あしなえ、しいたらんひとは、かかるみちにはかうべからず。ただふねりてのみ、かいのきしにはくなり。

足が動かず、目も不自由な人は、この〔険しい〕道に向かうべきではありません。ただ船に乗るときだけ向こう岸に着くのです。

しかるに、このごろのわれらは、智慧ちえまなこしい、行法ぎょうぼうあしえたるともがらなり。聖道難行しょうどうなんぎょうけわしきみちには、そうじてのぞみをつべし。ただ弥陀みだ本願ほんがんふねりて生死しょうじうみわたり、極楽ごくらくきしくべきなり。

さて、今の時代の私たちは、智慧の眼を失い、修行の足も動かない者です。聖道門という難行の険しい道には、すべて望みを絶つべきです。ただ、阿弥陀仏の本願の船に乗ってのみ、輪廻の海を渡り、極楽という向こう岸にたどり着くべきなのです。