御法語
浄土門というは、この娑婆世界を厭い捨てて、急ぎて極楽に生まるるなり。
彼の国に生まるる事は、阿弥陀仏の誓いにて、人の善悪を簡ばず、ただ仏の誓いを頼み頼まざるによるなり。この故に道綽は、「浄土の一門のみ有りて通入すべき路なり」と宣えり。されば、このごろ生死を離れんと欲わん人は、証し難き聖道を捨てて、往き易き浄土を欣うべきなり。
この聖道・浄土をば、難行道・易行道と名づけたり。譬えを取りてこれを云うに、難行道は、険しき道を、徒にて行くがごとし。易行道は、海路を船に乗りて行くがごとしと云えり。
足萎え、目しいたらん人は、かかる道には向かうべからず。ただ船に乗りてのみ、向かいの岸には着くなり。
然るに、このごろの我らは、智慧の眼しい、行法の足萎えたる輩なり。聖道難行の険しき道には、惣じて望みを絶つべし。ただ弥陀の本願の船に乗りて生死の海を渡り、極楽の岸に着くべきなり。
現代語訳
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彼の国に生まるる事は、阿弥陀仏の誓いにて、人の善悪を簡ばず、ただ仏の誓いを頼み頼まざるによるなり。この故に道綽は、「浄土の一門のみ有りて通入すべき路なり」と宣えり。されば、このごろ生死を離れんと欲わん人は、証し難き聖道を捨てて、往き易き浄土を欣うべきなり。
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その国に生まれることは、阿弥陀仏の誓いによるのであって、人の善悪にかかわりなく、ただ、仏の誓いを頼みとするかしないかにかかっているのです。それゆえに、道綽禅師は「ただ浄土の一門だけが通入することのできる道である」と言われたのです。ですから今の時代、迷いの境涯を離れたいと望む人は、覚りを得ることの困難な聖道門を捨てて、往くことの容易な浄土門を願うべきです。
※浄土の一門…なり=道綽『安楽集』巻上(『浄全』一・六九三頁上)。
※通入=「幅広く上は菩薩から下は五逆の罪人までもが、遠く釈尊在世から末法万年の後百年まで、共通して(時についても機についても分け隔てなく)入る」の意。後篇第四章、「往生大要抄」(『浄全』九・四八三頁)参照。なお時と機については後篇第三章参照。
※このごろ=「人の能力の劣る末法の時代において」の意。前編第二十章「近来」参照。 -
この聖道・浄土をば、難行道・易行道と名づけたり。譬えを取りてこれを云うに、難行道は、険しき道を、徒にて行くがごとし。易行道は、海路を船に乗りて行くがごとしと云えり。
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この聖道門と浄土門とは〔それぞれ〕「難行道」「易行道」とも呼ばれています。たとえば、難行道は険しい道を徒歩で行くようなもので、易行道は海路を船に乗って行くようなものであると言われています。
※難行道は…ごとし=『十住毘婆沙論』「易行品」(『大正蔵』二六・四一頁中)参照。
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足萎え、目しいたらん人は、かかる道には向かうべからず。ただ船に乗りてのみ、向かいの岸には着くなり。
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足が動かず、目も不自由な人は、この〔険しい〕道に向かうべきではありません。ただ船に乗るときだけ向こう岸に着くのです。