国宝御影堂落慶Great repair of Mieidō

国宝・御影堂ものがたり

第2回御影堂の歴史 (1)

建暦2年(1212)、かつて大谷の禅房(今の勢至堂付近)と呼ばれた地で、浄土念仏の祖である法然上人が弟子たちに見守られ亡くなりました。文暦元年(1234)、高弟の勢観房源智上人はこの地に堂宇を建立、師・法然上人のご遺骨を安置し霊場としました。これにより、法然上人を開山とする知恩院の基礎が築かれたのです。

伽藍が本格的に整備され始めたのは室町時代後期からで、天正元年(1573)、十五代将軍足利義昭が織田信長に対して挙兵した際、義昭は二条城、信長は知恩院に布陣、勝利を収めた信長はこの時のお礼として銀や米などを知恩院へ寄進しています。その後も、豊臣秀吉に寺領を安堵(承認)され、知恩院は念仏の根本道場として法然上人の教えを綿々と引き継ぎました。

中でも江戸時代、徳川将軍家の庇護は厚く、知恩院の発展に大きく寄与しました。徳川家康公は熱心な浄土宗信者であり、慶長8年(1603)、知恩院を母君である於大の方(伝通院)の永代菩提寺に定めました。これに伴って寺領が大幅に拡張され、中段の地に御影堂、集会堂、大小方丈、大小庫裏などの諸堂の造営が行われ、それまで上段の地の勢至堂(本地堂)にお祀りされていた御影像が今の御影堂に遷座されました。

この後も徳川幕府の全面援助により、三門や塔頭寺院のある下段、御影堂など中心伽藍のある中段、御廟や勢至堂のある上段、三段の境内が整えられ、この形が現在の世に伝わりました。

三段に分かれている知恩院境内地図

御影堂は明治時代の排仏棄釈運動による難を免れた後、旧法(古社寺保存法)に保護され、平成14年(2002)には、新法(文化財保護法)により国宝の指定を受けるに至りました。

けれども、今までに御影堂を含む知恩院の諸堂は数度の火災に見舞われており、その度に多くの人の力によって建て直されてきたのです。現在私たちが見ている伽藍は寛永18年(1641)に再建された姿です。次回では、この時の火災と再建について語ることといたします。

年表

1212年(建暦 2年)
1月25日正午、法然上人御遷化。
1234年(文暦元年)
源智上人、法然上人廟堂を改修し仏殿・御影堂・総門も建て華頂山知恩教院大谷寺とする。
1573年(天正元年)
織田信長、諸堂修復料を寄進、寺領百石を加増。
1585年(天正13年)
豊臣秀吉、この頃から度々寺領を加増。寺領百九十石の朱印状を付す。
1603年(慶長 8年)
徳川家康、知恩院を菩提所と定め、寺領七百石余を寄進。
2002年(平成14年)
御影堂、三門が国宝の指定を受ける。
秀吉の寺領寄進状
秀吉の寺領寄進状