国宝・御影堂ものがたり
第3回御影堂の歴史 (2)
前回、慶長8年(1603)に徳川家康公により寺領が拡張され、中段の地に御影堂、集会堂、大小方丈、大小庫裏等の諸堂の造営が行われ、それまで上段の地の勢至堂(本地堂)にお祀りしていた御影像が御影堂に遷座されたことを述べました。
ところが、知恩院第三十二世霊巖(れいがん)上人代の寛永10年(1633)正月9日、火災が発生、勢至堂、経蔵、三門以外の建物が焼失してしまいました。そのときの様子が、当時知恩院の山役で、塔頭(たっちゅう)良正院の宗把(そうは)上人の手記に詳細に書かれています。
「正月九日亥の刻(午後10時)火が出て、私は一番に方丈に入り火の元に行ったが、すでに小方丈北側半分まで火が移っていた。霊巖上人は猛火の中に飛び込もうとしていたのでそれをなだめ、人を付けてお護りした。私は奥に入り権現様や秀忠公ご拝領の品などを持ち出した。御影堂に延焼するのを防ぐ為、霊巖上人や寺内の衆、一心院住持、近辺の衆とともに御影堂北側の廊下を切り離そうとした。そこへ周防守様の御家中木下宮内殿が駆けつけたが、時すでに遅く、延焼を免れなかった。」
今回の800年大遠忌事業でこの御影堂北側の廊下の修理に伴う調査で、火事の教訓を活かし、柱を引き抜くと倒れる構造になっていたことが判り、今回の修理でも同じように引けば崩れるようにしています。
さて、霊巖上人はすぐさま江戸に下がり、三代将軍家光公に報告しました。家光公は再建の命を下し、片桐貞昌を造営奉行として復興が行われ、寛永16年(1639)5月には御影堂立柱、同年7月上棟となり、その後約2年で大・小方丈、唐門などを含めた現在の伽藍が再建されました。
霊巖上人が知恩院の「再興上人」と称されるのは、この出来事によるのです。
年表
- 1234年(文暦元年)
- 源智上人、法然上人廟堂を改修し仏殿・御影堂・総門も建て華頂山知恩教院大谷寺とする。
- 1431年(永享 3年)
- 火災により焼失。空禅上人、勧進と足利義教の援助を得て諸堂を再建。
- 1467年(応仁元年)
- 応仁の乱により諸堂焼失。
- 1482年(文明14年)
- 朝野の賛助を得て阿弥陀堂・御影堂を旧地に再建。
- 1517年(永正14年)
- 三度目の火災により焼失。
- 1530年(享禄 3年)
- 御影堂(現在の勢至堂)再建。
- 1603年(慶長 8年)
- 徳川家康、知恩院を菩提所と定める。寺領拡大・大伽藍の造営はじまる。
- 1633年(寛永10年)
- 火災。勢至堂、経蔵、三門のみ災いを免れる。
- 1636年(寛永13年)
- 大梵鐘の鋳造
- 1641年(寛永18年)
- 諸堂の再建なる(御影堂・大小方丈など)